松倉重政

松倉豊後守重政(まつくらぶんごのかみ しげまさ)
    [天正2年(1574)〜寛永7年(1630)]

 重政は、天正2年(1574)筒井家の家老松倉重信の長男として生まれている。重信は右近あるいは右近太夫とも呼ばれ、筒井順慶に仕え、松倉家は筒井家の家老職を務めていた。筒井順慶が天正12年36歳で死去後、その跡を継いだ筒井定次は、翌13年秀吉により、伊賀の国上野への転封を命じられる。重政12歳のことである。定次に従った父右近重信とともに伊賀国名張簗瀬城に移り住み、文禄2年(1593)父右近重信死去により、重政20歳で家督を継ぐ。

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで、重政は井伊直政隊に加わり関東勢として活躍。この戦のおり家康公の覚えめでたく、慶長13年(1608)筒井定次改易処分に際し、重政も簗瀬の所領を失いはしたが、十市、高市、宇智郡で一万石余を拝領、あらたに大名となって同年7月二見城(五條市二見)に入部した。松倉重政35歳の時である

 松倉豊後守重政はその後、8年ばかり二見城にあって、城下町振興策として諸役を免許して商人の結集を計った。その結果、五條村と二見村の間、紀州街道沿いに「新町」が開設され、新町は現在に続く、商業と交通の要衝として五條市発展の礎となった。
 


:(現在の新町通り)
 

 元和元年(1615)大阪夏の陣大和口、道明寺の戦いで軍功めざましく、家康の命により、元和2年(1616)4万3千石に加増され、有馬晴信の旧領であった肥前の国有馬日之江に転封された。

 島原では、原城と日之江城を廃して、元和4年(1618)島原城築城に着工、7年後の寛永2年(1625)島原城が完成した。


(現在の島原城)

        
寛永7年(1630)呂宋遠征の船が長崎を出港して5日後の11月16日、松倉豊後守重政は小浜温泉で急死した(57歳)。重政の死因は明らかにされておらず、暗殺されたとの伝承も残されている。

 重政が分不相応の島原城を築城し、財政難から島原で領民に苛斂誅求を行ったことは有名な話である。これをきっかけに、彼の死の7年後島原の乱が起きたとされているが、五條では 松倉豊後守重政の評価は大変高いものであった。新町の西方寺境内に重政の頌徳碑(龍珠院殿雲厳宗関大居士)が建ち、江戸時代では松倉祭り、豊後祭り、豊後様、として感謝の祭礼が行われていたなど、名君として崇められていたことは、殆ど知られていないことである。