ジャワ舞踊の会 冨岡三智  ジャワ舞踊とは

ラントヨ 宮廷舞踊 民間舞踊 新しい舞踊 結婚式での舞踊 バンバンガン・チャキル

心をとらえるもの ラサを支えるもの 私のスリンピ・ブドヨ観 風景が変わること

己が姿を確かめること その1鏡を使うこと

踊り手の人数 ジャワ舞踊の衣装
 

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この「ジャワ舞踊とは」では、私が今まで「水牛」に寄稿してきたエッセイのうち、ジャワ舞踊についての考え方などについて書いたものをまとめました。もっと基本的な知識については、また別項を設けたほうがよいかなと思いますが、ここでは、何らかの芸術―舞踊に限らず―を実践されておられる方や関心のある方には、なんとなく分かっていただけるのではないかと思います。

oobaラントヨ 「水牛」2002年11月号掲載)

ここでは、私が学んでいるインドネシアのジャワ島中部にある古都・ソロ(ソロは通称で、正称はスラカルタ)の様式の舞踊について書く。ジャワ島中部はマタラム王国が栄えた所だが、1755年に同王国はスラカルタ王家とジョグジャカルタ王家に分裂した。以降両王家は競い合ってそれぞれの芸術様式を打ち出したので、ジャワ舞踊と総称されても、両都市では様式が異なっている。

ソロ様式の舞踊では、舞踊作品を教える前に、基本的な動きを取りだして教えるラントヨという教授法がある。バレエほど複雑ではないにしろ、ラントヨでは姿勢や体の各部の動きを分解して1つずつ教え、それぞれに名前もつけられている。

私の乏しい知識では、民族舞踊で基礎練習があるというのはあまり聞かない。インドネシアでもソロ様式の舞踊だけで、バリ舞踊やジョグジャカルタ様式の舞踊などにはない。また日舞でもないという。それではどうするのかというと、初心者にはこれという作品が大体決まっていて、それをいきなり習うのだそうだ。技術的に容易だから、あるいは難しくとも基本的な振りが全部含まれているからということで、その作品、となるらしい。

ラントヨというのは、宮廷舞踊家にして1950年に設立されたコンセルバトリ(現在の芸術高校)の最初の舞踊教師・クスモケソウォ(1909〜1972)が編みだした、ソロ様式の舞踊のための基礎練習法である。ここで付け加えておくが、ソロにも様々な系統の舞踊がある。しかし、基本的にソロ様式と言えば、宮廷で発展した舞踊やそのテクニックを用いて作られた舞踊のことである。したがってラントヨでは宮廷舞踊のボキャブラリーを学ぶことになる。

クスモケソウォは1950年前後にまずラントヨ I を作り、しばらくしてからラントヨ II を加えたという。それ以降現在に至るまで、芸術高校でも芸術大学でも最初の学年ではラントヨが必修とされている。ソロ様式の舞踊には女性プトリ、男性優型アルス、男性荒型ガガーという三つの基本的な型があり、それぞれにラントヨがある。ラントヨの語源はわからないが、アジャラン・トヨ(アジャラン=教え、トヨ=舞踊、舞踊の教え)という語からきていると言う人もいる。

ラントヨで画期的なのは1、2、3……と拍を数えることを始めたことである。これは楽譜の成立などとも関係があるのかもしれない。実はラントヨの成立以前からラントヨ I に似たタユンガンというものは存在した。昔は生徒が集まるとまず音楽に合わせてルマクソノの練習をした。練習場を皆で輪になって廻り、これをタユンガンと呼んでいたという。その頃の舞踊教師というと、「はい、ここでクノン/ゴング」というように節目楽器が鳴る位置を教えていただけだそうだ。

さて、ソロ様式の舞踊作品はいろんなスカランをつなぎ用の振りでどんどんつなげていくという作られ方をしており、そのつなぎの振りは必ず音楽の節目で使われる。スカランとは一まとまりの振りのことで、その長さは8拍、16拍、32拍……とまちまちであり、繰り返すことも可能である(繰り返さないものもある)。またスカランの多くやつなぎの振りには名前がつけられている。

ラントヨ I では、まず基本のルマクソノ=足運びを学ぶことが重要である。それには手の動きもつける。同じ足運びでも手の動きには何種類かバリエーションがあって、女性舞踊の場合だと最初は右手だけ、次は左手だけ、次は両手を動かす……というように徐々に難しくなるように作られている。そしてつなぎの振りを何種類か学ぶと、歩いてはつなぎ、歩いてはつなぎ……を繰り返す。

ラントヨ II になると、スカランを学ぶ。ラントヨ I では足と手の動きだけだったが、そこに胴の動きが加わってより複雑になる。I で習ったつなぎを使って、スカランをやってはつなぎ……を繰り返す。

ラントヨでは普通、伴奏に周期の短いクタワンという形式を採用する。曲は何でも良い。ガムラン音楽は周期構造を持ち、クタワンだと16拍で1周である。周期の短い曲だと節目がすぐに回ってくるので、練習がしやすい。ラントヨでは何を何回繰り返すかは決まっていないが、つなぎの振りは必ず曲の節目で使わねばならないので、つなぎにうまく入れなければ、曲がもう1周するのを待って入ることになる。このような練習を通じて、基本的な振りを習得すると同時に、音楽にどのように振りを当てはめていけば良いのかも学ぶのである。

ooba宮廷舞踊 (「水牛」2002年12月号掲載)

クラトン(宮廷)で生まれ発展した舞踊の種類には「ブドヨ」、「スリンピ」、「ウィレン」がある。個々について述べる前に、全体の特徴について簡単に述べよう。

クラトンでは舞踊は王に捧げるものとされる。すべての舞踊は合掌に始まり合掌に終わる。これは王に対して、また神に対して祈る行為である。クラトンの舞踊で大事なのは、踊り手が自己を表現することでなく、己を無にすることである。したがって顔の表情で何かを表現することはない。

これらの舞踊はすべて群舞で、しかも同一の衣装を着用する。振付はきわめて抽象的、象徴的である。全員が同じ振付を踊り、しかも東西南北の4方向に同パターンの振りを繰り返す。スリンピやウィレンでは踊り手(偶数人数)はシンメトリーなフロア・パターンの数々を描き、そこに調和が表現される。背景となる物語はあったとしても、舞踊自体から感じ取ることはほとんどできない。完全な長さで踊ると約1時間かかり、その間に踊り手は瞑想しているような状態になる。

●ブドヨ

9人の女性による群舞で、儀礼的な性格が強い。9という数字は人体の9つの穴を暗示しているとも、また9人の描く様々なフロア・パターンは星の運行を表しているとも言われる。

ブドヨの本曲であるブドヨ・クタワンは、王と南海の女神であるラトゥ・キドゥル(代々の王を守護する)との出会いを描いており、年に一度王の即位記念日にのみ踊られる神聖な舞踊であり、いまもなお門外不出で様々なタブーがある。かつてクラトンでは、やはりブドヨと呼ばれる踊り手が幼少からブドヨを踊るためだけにクラトンで隔離して育てられていた。

一般に言うブドヨとは、この本曲に代えてブドヨ達が普段練習するために作られたものである。10数曲あったが廃れ、現在は3曲しかクラトンに残っていない。ブドヨ独特の演奏形態として、楽器・クマナの使用が挙げられる。ティン、トン、ティン……と1対のクマナを交互に叩く音が延々と繰り返される中、男女の斉唱・ブダヤンが続く。一般的なフル編成ガムランはここでは使用されない。ブドヨ・クタワンでは全曲1時間半にわたってクマナを使用するが、一般のブドヨでは部分的に使われるか、または使われない。(古いスリンピの一部で使われるものがある。)南海の女神はクマナの音が好きなので、みだりに演奏してはいけないとクラトンの人は言う。なお、斉唱はスリンピでも使われるが、ブドヨという言葉に由来してブダヤンと呼ばれている。

●スリンピ

4人の女性による群舞である。王女達の精神鍛錬のために、また美しい所作を身につけるために作られた。王女としての心得を説く歌詞を持つものもある。現在10曲がクラトン内外で伝承されている。

スリンピの特徴は戦いを描いていることである。ピストルや弓での戦いの後、シルップと呼ばれる静かでゆったりしたテンポの場面になる。負けた2人の踊り手が座り、他の2人が踊る。その後元のテンポに戻ってまた戦いが繰り返され、今度は違う2人が座る。つまり戦いからシルップに至る場面は2回あり、2回とも全く同じ振付である。これは現実の戦いではなく、プラン・バティン(内面の戦い)を描いているという。交互に座るのはプラン・バティンには勝ち負けがないからだという。ピストル(オランダの影響)は実際に手に持つこともあるが、象徴的にサンプール(腰に巻いた布)の扱いで表すことが多い。またシルップの場面は彼岸を、その他の部分は此岸を象徴しているともいう。

●ウィレン

ウィレンは2人または4人(それ以上の偶数人数によることもある)の男性によって踊られる舞踊で、優型と荒型の両方がある。槍や剣、弓矢などの武器を持ち、戦いの練習や兵士の勇壮さを描いている。スリンピ同様現実の戦いを描いている訳ではなく、勝ち負けもない。

しかしウィレンでも、プティラン(舞踊劇の一部から抜き出した作品、科白を伴う)の影響を受けて登場人物が設定されているものがある。それらはかつてはウィレン・プティランと呼ばれたという。その例としてカルノ・タンディンが挙げられる。これにはカルノとアルジュノという兄弟が敵味方に分れて戦い、カルノが敗れるという物語が背景にあり、踊り手も両キャラクターの衣装をつける。しかし振付としてはウィレンであって物語を説明している訳ではない。そのためウィレンとして同一衣装をつけて踊られることもある。

ooba民間舞踊 (「水牛」2003年1月号掲載)

前回はクラトン(宮廷)舞踊の舞踊について書いたので、今回は民間で発生した舞踊について言及しよう。
宮廷舞踊は儀礼として王に捧げるものであり、群舞によって調和や天体の運行を表現していると前回説明した。それに対し、民間舞踊は基本的に単独舞で、娯楽に供する舞踊として発展してきた。踊り手の個性や生き生きとした人間性が表現され、舞踊は踊り手と観客と演奏者の間のコミュニケーションの上に成立した。

民間舞踊ではチブロン太鼓というやはり民間の芸人に由来する太鼓を用いる。この太鼓の手組みは派手で舞踊の細かい振りに対応し、振りにも音楽にも躍動感を与える。さらに曲の長さは固定しておらず、ある程度の融通性と即興性があった。具体的に以下の各項目で触れるように、その場の状況や踊り手と演奏者との駆け引きによっていくらでも踊ることができたのである。

●ガンビョン

ガンビョンはチブロン太鼓の奏法とともにスラカルタで発展した、現在ではスラカルタを代表する舞踊ジャンルである。その太鼓奏法も現在ジャワ・ガムランにおける演奏会スタイルの標準になっている。ガンビョンは楽曲優先の舞踊で、太鼓が繰り出す手組み(スカラン)を聞いて、踊り手がそれに合った振りを踊る。ガンビョンでは最初4つと最後のスカランが決まっている他、終わり方にも定型がある。他は順不同とは言え、歩きながら踊るスカランと止まって踊るスカランを交互に演奏しなければならない。これらの制約の中で太鼓奏者は数多くのスカランから自由に選んだり、また即興的に作ったりして演奏した。

ガンビョンは女性の単独舞であるが、実は1960年代後半まではガンビョンは一般子女が嗜むにはふさわしくない舞踊だった。ガンビョンを踊るのは、レデッ又はタレデッと呼ばれる流しの女性芸人か、または商業ワヤン・オラン(舞踊劇)劇場の踊り手に限られていた。その芸風は歌いながら踊るというもので、しかも性的合一に至るコンセプトを描いた扇情的な振りが多かった。

それは農村の豊穣祈願の踊りに発するからだという。(日本でも農耕儀礼ではしばしば性的な行為が模倣される。)だがそれゆえ多産を願うものとして、昔からしばしば結婚式ではプロの踊り手を呼んでガンビョンを踊ってもらったという。現在でも結婚式や各種セレモニーでガンビョンが踊られることが多いのは、根底に儀礼的な性格をまだ残しているからだろう。

さて、開放的な気風のマンクヌガラン宮ではガンビョンを取り入れ、接待用の娯楽舞踊として洗練させた。そして宮廷舞踊の要素を付加し、即興的な要素を排して歌いながら踊るのも止め、レデッのイメージを払拭した演目「ガンビョン・パレアノム」を作り上げる。それでも当初は親族が踊るのはタブーだったが、60年代後半には親族も踊るようになった。パレアノムはスラカルタの舞踊家達に知られて広まり、また芸術機関でもガンビョンをスラカルタを代表する舞踊として取り上げるようになって、ガンビョンは一般に定着した。

●ゴレック

ゴレックはジャワの2大様式の1つ、ジョグジャカルタ(ジョグジャと略される)様式を代表する舞踊ジャンルであるが、スラカルタにも、ジョグジャとは違う独自の伝統的なゴレックが存在する。これらもやはりジョグジャの影響があるのか、または別々に発生したのか、私の師(現在69歳)も分らないと言う。

ゴレックとは木偶人形のことで、人形振りを模したものとも言われる。大人になりかかった女性が身を装う様を描いた単独舞である。ジョグジャカルタでは、かつてはプロの踊り手による扇情的な舞踊で女装した男性によっても踊られたというが、スラカルタではゴレックは子供の踊りとされている。

ゴレックで特徴的なのはケバルという演出である。速いテンポで、鏡を見たり化粧をしたりする振りが繰り返される。ケバルの後にはゆったりしたテンポで踊る振りがくることになっており、1回の上演で緊張(ケバル)した場面と弛緩した場面が交互に何度か繰り返される。ガンビョンと違い、舞踊は楽曲優先で、太鼓奏者が踊り手に合わせる。各曲はケバルに独自のパターンを持つが、そのパターンを踏まえ緊張と弛緩が交互にくるようにさえすれば、振りの順序は自由である。(もっとも子供が踊るため、実際は踊り手でなく舞踊の先生が事前に順序を決めることが多かったようであるが。)

●ガンドロン

ガンドロンとは王や武将が恋に落ちている様子を描いた男性単独舞のジャンルである。ガンビョンやゴレックと違い、ガンドロンでは人物が設定されており、踊り手はその扮装をする。恋の対象となる姫も設定されているが、単独舞ゆえ実際には姫は登場しない。恋する姫を心に思い描いている男性の、揺れ動く不安や高揚する気持ちを描いているのである。

ガンドロンで重要なものに「キプラハン」という定型がある。武将が身を飾る振りやその力強さを誇示する振りが繰り返される。1曲の舞踊におけるハイライト・シーンで、単調に繰り返すテンポの速い曲を使って高揚感をあおる。クロノ、ガトコチョ、ガンビルアノムなどの人物の舞踊でキプラハンが使われている。

キプラハンもまた踊り手優先である。つまり踊り手が太鼓奏者に次のスカランの指示を出す。各スカランは順不同だが最後だけは決まっており、踊り手がそれを切り出すまでは延々とこのシーンが続く。踊り手が新しい振りを創作することもよくあった。またガンドロンでは各人物の性格を表現することが大事であり、本来はキプラハンの語彙も多少異なる。たとえば、人間の煩悩を体現しているクロノにはカード賭博や凧上げに興じるような振りが伝わっているが、廉直の英雄・ガトコチョにはこれらの振りはふさわしくない。

ガンドロンに含まれる舞踊であっても、キプラハンではなく、女性舞踊のケバルやガンビョンの振りを使っているものがある。これらもやはり、恋に落ちた男性が身を飾ったり力強さを誇示する様子を描くものとして使われており、キプラハンの一種であると見なされている。描かれている人物の性格によっては、キプラハンの表現はより女性的な表現を取るからである。上で述べたようなキプラハンは性格の勇猛なキャラクターにふさわしい。

ooba新しい舞踊 (「水牛」2003年1月号掲載)

伝統舞踊の第3弾として「新しい舞踊」というのも変だが、伝統舞踊の発展の中で伝統舞踊家によって開拓された新しいジャンルとして、子供のための舞踊と男女のカップルを描いた舞踊(一般に英語でラブダンスと呼ばれる)を取り上げてみた。もちろんここで述べている以外にもジャンル分けできないほど数多くの新しい舞踊作品が作られている。

●子供の踊り

現在では子供用の舞踊作品が多く作られているが、昔はその数も限られ、それ以外には遊び歌に動きをつけたものがあっただけだった。後者は形式があるわけでなく、また各教室の先生により同じ歌でも動きはまちまちだったという。

子供の踊りというジャンルが生まれるきっかけとなったのは、1961年に観光用として始まったプランバナン寺院でのラーマーヤナ・バレエだと言って良いだろう。主役の大人に混じって物語に登場する動物を子供に群舞で踊らせた。ワノロ(猿)やクリンチ(兎)はそのために作られたものである。

またラーマーヤナ用ではなかったが、その振付家が61年に作った作品としてクキロ(鳥)がある。これは鳥が目を覚まして餌を探しに行く様子を描いたもので、スンダやジョグジャなど他地域の舞踊の要素も取り入れている。

さらにインド舞踊の影響を受けたマニプリという舞踊もある。現在知られているのはマリディ氏が新しく振り付け直したもので子供の舞踊となっているが、元来は大人の舞踊でインド舞踊の振りをそのまま使ったものだった。しかしマリディ氏の作品でもインド風であることは強調されている。

このように子供用のレパートリーには動物の動きを模していたり、他地域の影響が入っていたりして、私達が一般に思い浮かべるジャワ舞踊的な要素〜流れるようにゆったりとした動き〜は見られない。子供には当然まだそれは無理だと言えるし、またまずは動くこと、踊ることに興味を持たせることに重点が置かれていると言える。

●男女の踊り

現在では結婚式で男女の恋愛を描いた舞踊作品が頻繁に上演されているが、このジャンルの舞踊は1970年に作られたカロンセを最初とする。これはスハルト元大統領夫人(故人)が前述のマリディ氏に「自分の親族の結婚式のために、新しい舞踊で結婚式にふさわしいものを」と依頼した結果生まれたものである。

もっとも男女が一緒に踊る演目としてガトコチョとプルギウォ、パンジとスカルタジなどは古くから存在した。(カロンセもパンジとスカルタジという人物設定である。)しかしこれらの演目は舞踊劇の中の1場面として上演され、また稀にその場面だけが上演されるとしてもその都度振付けられて、作品として決まった構成を持つものではなかった。

カロンセ以降この種の作品が相次いで作られた。それは結婚式での需要が多いからだろう。最近は人物設定があってもその衣装を着けず、代わりに結婚式の衣裳に似た衣装を用いることも多く、さらに特定の物語の背景を持たない男女の舞踊も作られている。

これらの作品の構成の特徴を一言で言えば、ソロ様式の舞踊の代表的な要素が全部含まれている、ということだろうか。しっとりした場面、寂しげな場面はスリンピやブドヨからの振りが、楽しげに男女が睦みあう場面はゴレックやガンビョンからの振りが取られている。伴奏もまた様々な曲をつないで、喜びや悲しみに揺れる男女の情感をドラマティックに描き出している。

                                                        

ooba結婚式での舞踊 「水牛」2003年5月号掲載)

前回、前々回に述べたのは、宮廷儀礼ではないにしろ、試験という儀礼的なあり方の公演だった。今回はジャワのスラカルタ(通称ソロ)の結婚式で供される舞踊について述べよう。そこでは舞踊は結婚式という儀式に付随する娯楽、余興という面が強い。

ジャワでは結婚披露宴で舞踊がよく上演される。普通は新郎新婦の席へ向かうメイン通路で踊られるが、主催者によっては、メイン通路の真ん中に広く舞踊スペースを取ったり、ちょっとした舞台を設置したりすることもある。

上演されるのはだいたい食事が供されている間やお色直しの間であり、基本的に舞踊は客に対する余興だと言える。しかし中には踊り手が新郎新婦の入退場を先導し、その後続けて舞踊が上演されるといった具合に、舞踊を儀礼の部分に組み込むこともある。

舞踊の伴奏だが、一般の人ならカセットを使用することが多いだろう。ジャワの伝統的な結婚式では各シーンで音楽を使用し、しかもどの曲を使うのかも決まっている。音楽は舞踊伴奏のためだけでなく、式に不可欠なものである。しかしガムラン演奏には総勢20人前後が必要なため、依頼する方は経済的に大変であり、そのため結婚式用のカセットが多く市販されている。主催者が芸術に関心の高い富裕層や芸術関係者であればもちろん音楽は生演奏で、前述のような演出をしたり舞踊の新作を委嘱したりすることもある。

結婚式に注文される演目はさまざまであるが、一番多いのがガンビョンであり、次いで「カロンセ」など男女の恋愛を描いた舞踊や、恋に落ちた武将を描いたものも多い。また恋する武将に道化がからむもの(漫才のような感じである)も人気がある。

ガンビョンはかつては性的なニュアンスの強い舞踊で、多産を願うという意味で結婚式によくガンビョンの踊り手を呼んだものだという。現在ではそのような意味はほとんど意識されず、単に結婚式や各種儀礼につきものの舞踊だとされており、数人の女性によって華やかに踊られる。

恋愛する男女を描いた舞踊(ラブダンス)はソロでは「カロンセ」に始まるのだが、これは最初から結婚式用に作られた作品である。スハルト元大統領夫人(故人)が親族の結婚式用に舞踊家・マリディ氏に委嘱した作品で、その後マリディ氏は各地で踊って普及させた。結婚式での需要が多いため、その後芸大でも同種の舞踊が多く作られている。

では次に、私が出席したり実際に踊ったりした結婚式の例をいくつか挙げよう。私の周囲は芸術関係者が多かったのでユニークなプログラムに接することが多かったが。

●1998年4月、F嬢の結婚式。
Fは芸大教官・P先生の姪であり、先生宅に下宿していた。結婚式は先生の自宅前で行われた。家の入り口の前に新郎新婦の席を作り、家の前の道の半分を上演スペースに、残りを客席にして、その道は式が終わるまで通行止めにする。このように自宅で結婚式を挙げることもソロではまだよく見られる。P先生夫婦はともに芸大教官で新郎新婦も芸大生だったが、周囲がみな踊る人ばかりのせいか、かえって友達によるソロ舞踊は全然なかった。演し物は先生の娘(中学生)とその同級生達によるジャイポンガン(西ジャワで生まれた新しい舞踊)、先生の息子(幼稚園)とその連れによる「ガンジュル・ガンジュレット」、さらにP先生の親戚の踊り手(中年男女)による漫才のようなもので、身内総出演である。このうち「ガンジュル・ガンジュレット」はP先生の若い頃の作品で、男性2人の異なったキャラクターによる軽妙な掛け合いを描いている。田舎の結婚式で喜ばれるものをということで作ったそうで、今までかなり踊ったという。

●2000年8月アノムスロト氏の娘の結婚式。
アノムスロト(以下アノムと略)はインドネシアを代表する有名なダラン(影絵遣い)の一人である。広大な自邸の、この日のために新築したプンドポで結婚式が行われた。新郎新婦はプンドポの奥に座り、舞踊はプンドポで上演された。そして客はプンドポの前に広がる芝生の庭に並べられた椅子に座った。つまりプンドポを額縁舞台のように使用したのである。また楽器はプンドポの左手にあるガムラン用舞台に、アノム所有のものが据えられている。アノムは芸大に新作のブドヨを委嘱した。その作品は邸宅の住所を取って「ブドヨ・ティマサン」と命名され、衣装も新調された。アノムの依頼は当初それ1曲だったのだが、リハーサルの折りに男性舞踊もできないかと芸大学長に言い出した。ブドヨは女性の群舞なので、男性の群舞もあると良いなあと思ったらしい。このリハーサルは結婚式の4日前だったので、急な話である。しかしたまたま芸大には去る卒業式(7月)のために作った作品があって、それを出すことに決まった。毎年の卒業式には必ず教官が作品を作ることになっているが、この年の作品はたまたま男性5人によるものだったのである。まだ卒業式から日も浅く、踊り手も演奏家も揃っていて何とか上演できるというのと、結婚式のために作ったわけではないが新作だったのも良かったらしい。

●2001年7月、Eの妹の結婚式。
Eは芸大の教官で、男性伝統舞踊とコンテンポラリ舞踊を教えている。ソロ郊外のウォノギリという田舎に住んでいる。ここでは仮設の会場で結婚式が行われたが、新郎新婦の席と客の間に低い台を敷いて舞台が設けられ、しかも舞台がよく見えるように客席は舞台から少し離れていた。演し物は最初が私で「メナッ・コンチャル」という男性舞踊、次にEの作品によく出演している芸大生4、5人によるコンテンポラリ舞踊、そしてEの友達でジャワ在住バリ人によるバリ舞踊「タルナ・ジャヤ」、最後にEの大学時代の友達による滑稽な舞踊劇、である。ソロの伝統舞踊を踊ったのは私だけだった。演し物が4つもあり、しかもこんな田舎の結婚式でコンテンポラリ舞踊までやるとは、Eの芸大教官の面目躍如たるものがあった。

●2002年8月、Wの結婚式。
Wは芸大の若き教官だが、芸術家の一族に生まれ、彼自身、舞踊も音楽もよくする。そのため彼は結婚式で使う曲も舞踊もすべて新曲でやることにした。曲は彼の親戚で芸大教官でもある人に委嘱し、舞踊は彼自身が振り付けた。5人の女性による新しいガンビョン、男女2組によるラブダンスの他、男女1組の神が新郎新婦を入場に導くような儀礼的な舞踊を作ったのである。結婚式はソロでも一番大きな会場で行われたが、メインの通路を高く、座った客の目線の高さまで上げ、客席のどこからも新郎新婦や舞踊が見えるようにした。ちょうど歌舞伎の花道のような感じである。

oobaバンバンガン・チャキル 「水牛」2004年6月号掲載)

今回はジャワ舞踊の戦いの演目を紹介しよう。バンバンガン・チャキルは見目麗しい武将(バンバンガン)とチャキル(森に住む鬼)の戦いを描いたもので、どんなストーリーのワヤン(影絵芝居)にも挿入されるシーンである。ワヤンに準じているワヤンオラン(舞踊劇)の中で上演される他、独立した舞踊作品として上演されることも多い。武将が森にやってきて瞑想しているところにチャキルが登場し、武将の邪魔をしようとする。そのうち戦いになり、チャキルが負けるという筋である。チャキル以外にもさらに3体の大きな怪物が現れて武将との戦いになるというのが完全な演出で、その場合はプラン・クンバン(花の戦い)と呼ばれて区別される。

バンバンガンはある1人の人物名ではなく、人物設定には多少の幅がある。とはいえ、ほとんどはアルジュノかその息子のアビマニュである。踊り手としてはその人物のキャラクターを表現することが重要である。たとえばアルジュノはハルス(優美)の理想とされるので、その動きは基本的に相手の攻撃をかわしたり、サンプール(舞踊に使う布)を手にして払うだけである。間違っても相手を蹴飛ばしたり、殴り飛ばしたりはしない。そのシャクティゆえに、相手の体に触れずしてダメージを与えることができるというのがアルジュノのキャラクターである。これがアビマニュになるとややカッサール(荒い性格)になり、チャキルを足で蹴ったりする表現も可能になる。だが最近はそこまで知って厳密にキャラクター表現をする踊り手も少なく、またその表現力を楽しむ観客も少なくなってきたようだ。

余談だが、バンバンガンは優形のキャラクターであるので、商業舞踊劇の世界ではしばしば女性によって演じられる。しかしこれは宮廷舞踊の美意識からすると有り得ないことだった。宮廷では男性は男性舞踊だけ、女性は女性舞踊だけを踊る。スリウェダリ公園にあるワヤン・オラン劇場の舞踊指導を頼まれた宮廷舞踊家が、女性がバンバンガンを演じているのを見てひどく立腹し、二度とスリウェダリに足を向けなかったという逸話が伝えられている。1950年代頃の話である。女性が男性舞踊を踊るということには、単にハルスの理想が女性的な表現形態をとるからというだけでなく、興行上の理由(女性が主役となることで観客を魅了する)も考えなければならないだろう。

さて、この演目では音楽の流れや話の筋は大体決まっているが、振付はかなり踊り手に任されている。私が留学していた芸大でもバンバンガン・チャキルには決まった振付がなかった。4年後期の授業で履修するのだが、曲を与えられて自分で振り付け、それが試験される。その理由を尋ねたところ、昔から踊り手が自分で振り付けるのが伝統であるからということだった。

ここでは一般的、古典的な曲の進行に沿って舞踊の見どころを説明しよう。まずはスボカストウォというゆったりした曲にのってバンバンガンが1人登場する。顔見世程度に踊ったあと、舞台中央で客席を向いてタンジャッの姿勢(舞踊の基本的な立ち姿勢)になる。瞑想に入ったということである。曲がアヤッアヤッアン・アラスアラサン(アラスアラサンは森の意)、そしてスレペッグに変わり、バンバンガンの背後からチャキルが登場する。最初は舞台後方で踊っているが、やがてバンバンガンの存在に気づき、舞台中央にやってきて、後ろからのぞきこんでみたりしてちょっかいを出し始める。バンバンガンの踊り手の立場からすると、ここは結構つまらないシーンである。中腰でじっと立ち続けているので足がだるくなるわ、背後でのチャキルの踊りは全然見えないわ、ちょっかいを出されても真面目な顔をしてないといけないわで、ひたすら忍耐である。

チャキルの邪魔に瞑想から覚めたバンバンガンが動き始め、戦いのシーンになる。バンバンガンの踊り手としては、チャキルの攻撃から素早く身をかわしても、すぐにまた優美な動きに戻るという緩急が見せどころである。反対にチャキルはすばしこく動きまわる。だがチャキルの踊り方は昔と今ではずいぶん変わったようだ。かつてはチャキルの動きはワヤン人形の動きを模していたため腕を回す動きが中心で単純だった。人形のように、セレー(曲の節目)では腕がまっすぐに伸びていなければならなかったという。また飛んだり跳ねたりする動きもなく、バンバンガンとの空間配置もワヤンのように平面的で横並びだった。しかしシラット(武術)の動きを取り入れたり、1970年代頃からは様々な動きが考え出されると同時に空間を立体的に使うようになり、今ではアクロバティックな要素が強くなっている。

その後チャキルは自らのクリス(剣)を抜く。実はチャキルは剣を2本持っている。1本はラドランと呼ばれる一般的な形のクリスで、腰に通常とは上下逆に差す。このように剣を差すのはチャキルだけである。それから膝の前にナイフのような形の剣をもう1本差している。この2本の剣を抜いてお手玉のように操るという芸当を見せることもある。ともあれチャキルはバンバンガンを倒そうと剣を抜いて立ち向かい、しかし誤って自らを刺す。ここで曲はサンパッとなる。ここではチャキルは決してバンバンガンの剣に倒されるのではない。バンバンガンが剣を手に取ることはない。チャキル=悪は、バンバンガン=善に負かされるのではなく、自らの行為によって自滅するのである。それがジャワの哲学なのだという。だが最近はそのことを知る人も少なくなり、バンバンガンがチャキルの剣を奪い取って刺すという振付にする若い人もいる、と年長者は渋い顔である。

実は、以上のような流れはプティラン(舞踊劇中の1幕が独立したもの)としての演出である。これとは別に、宮廷舞踊ウィレンの形式に則った演出もある。その場合は、他のウィレン同様にスレペッグの曲で入場する。そしてブクサン(舞踊の主要部)が始まり、ラドラン形式の曲を使って2人がシンメトリーなフォーメーション、振付で踊る。それから曲はアヤッアヤッアン、スレパガンに進んで戦いのシーンとなり、さらにパラランという歌の形式に進むこともある。最後はサンパッの曲で退場する。このように曲の進行を聞いているが、私はまだこのウィレン形式での上演を見たことがない。宮廷でも、である。たぶんこれは大衆向けプティランの演出の方が断然面白いからだろうなと推測している。優美でおっとりした動きの武将とすばしこい動きのチャキルがそれぞれに踊るからこそ面白いのであって、この両者がまじめに向き合ってシンメトリーに踊っても面白いかなあ? と私は疑問である。

ooba心をとらえるもの 「水牛」2004年2月号掲載)

パフォーマンスというのは観客の存在、つまり見られることが前提になっている。そしてパフォーマーは見せるに値するものを生み出そうとする。だが見るに値するものというのは、見せるに値するものの中にのみあるのだろうか?

パフォーマーに見せようとする意思があるのかないのか分からない、こちらが見ていることなどもまるで意に介していないようだが、だが人を魅入らせてしまう何かがある……。そんなパフォーマンスもあるのだとなぜか私は昔から確信していた。ジャワ舞踊を始めた頃からこれはそんな舞踊なのだという直感があって、ただそこに在るというような舞踊ができたらなあと思っていた。だがこういうことを人に話しても、怪訝な顔をされるのだった。

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水牛の2003年3月号、4月号で私は留学の最後で経験した公演について書いた。この公演で私は男性4人、女性4人が出演する作品に出ていた。女性4人のうち、私以外は芸大の先生達である。このとき共演の先生達(女性)は私に、細部の動きやサンプール(腰に巻く布)を払うタイミングをもっと皆に合わせるようにと何度も言った。それは振付家が要求する以上であった。

芸大では普段から共演者のタイミングや動きの細部を揃えることをやかましく言い、それは女性舞踊の群舞(スリンピやブドヨ)に顕著だった。実のところ私は芸大のその方針には賛成しかねた。もちろん芸大が世界的に有名になったのは、本来は宮廷舞踊であったものを質的に転換していくことができたからだ。群舞で一糸乱れず動きを揃えるというのは舞台芸術としてのあり方を追究していった結果に思われる。先生達にとってそれはあまりに当然のことだったが、この公演ではそれを目指しているわけではないと私は解釈していた。

そうは思うものの、一緒に踊るとなるとやはり共演者からの言葉は気になる。リハーサルの時に私は振付家、P先生(私の男性舞踊の師)とS氏(この公演に出演する踊り手)に一人ずつ、どうなのかと聞いてみた。3人が3人とも「合わせる必要はない!」と断言した。

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それから半年後の昨年7−9月、私はインドネシアに行った。調査研究のためだったが、この機会にその公演の私の舞踊について批評やアドバイスをもらいたいと思っていた。公演が終わって2週間足らずで私は留学を終えて帰国したので、当時はそんなことをする時間的余裕も精神的余裕もなかった。日本に帰って半年経ち、ようやく私はこの公演のことを客観的に見られるようになっていた。

まずS氏にコメントをもらいに行った。S氏はテクニック面や表現面で多くのアドバイスをしてくれたが、人に見せようとする意識がなかった点で私が一番良かった、それがジャワ舞踊にとっては一番大切なことなのだ、と言った。こんなことを言ってくれた人は今までにいなかった。その後私はP先生に会い、S氏と同じようなことを言われ、また他にも何人にも聞いて廻った。

もう一人、私はサルドノ氏にもコメントをもらいたかった。あの試験公演の主査だったからだ。氏は現存の人の中で多分一番古くからクスモケソウォに師事している。クスモケソウォは私の研究テーマの中で中心的な人物だ。その話を聞くためにもサルドノ氏には会いたかった。サルドノ氏もS氏やP先生と同様のことを言ったものの、「だが、これは試験公演だという緊張がまだ少し残っていた。それも全く抜けてしまったら、もっと踊りは良くなるだろう。」とつけ加えた。さすが主査は厳しく見ているという気がした。続けてサルドノ氏はクスモケソウォの教えについて語った。

ジャワ舞踊では踊っている間に瞑想のような精神状態に、さらにはほとんど眠っているような状態に入るのが理想である。誰かに見せようという意識もなく、すでに自分が踊っているという意識すら消え失せている。どこにも力が入っていない。パッ・ムングン(クスモケソウォのこと)の舞踊はそんな舞踊だった。それは見たことがある人でないと分からない。説明のしようがないのだ。人に見せる意識のない舞踊は、人の目を魅きつけようとするどんなパフォーマンスよりも、かえって見る者の心をとらえる。ジャワ舞踊は精神的な舞踊だからと言って、我々はお香を焚いたりろうそくの火を使ったりして演出する。しかし、たとえば白昼の市場で誰かがいきなり踊りだしたとしたら、しかもその人が全く人に見られることを意識していないとしたら、それはお香などで演出されたパフォーマンスよりもずっと我々の眼をとらえるのではないか? 君はそういう舞踊を一人で探ってみなさい……。

その話の最中にサルドノ氏はしばしば立ち上がり、パッ・ムングンの動きはとにかく独特で自分ではうまく再現できないが、と言ってやって見せてくれた。その動きは全く普通のジャワ舞踊ではなかった。こんな動きがかつてあったのか、ジャワ舞踊の奥にはこんな世界があったのかと鳥肌が立った。S氏の舞踊を見た時にも私は呆然虚脱していた(らしい)が、サルドノ氏はS氏よりほぼ一世代上であって、より古さを感じさせた。いま眼前に繰り広げられている動きは決して見て美しいわけでなく、また型が決まっているとも言えず、半分眠りながら揺れているだけのような動きだったが、何か恐ろしいものを見た時のように私は目が離せなかった。

氏の言葉を胸に刻みながら、しかし最後に一人で探れと言われてがっくりきた。S氏にも一人で探求してみろと言われていたのだ。人に見られていることを意識しない舞踊を追究するというのは矛盾している。一体どうやって追究していけば良いのか、それはまだよく分からなかった。だが、私がうまく言葉に表せないでいた「ただそこに在るという舞踊」がどういうものか、それはおぼろげながら見えてきた気がする。2人は私のやりたい方向がそこにあると見抜いて、公案を与えてくれた。今まで辿ってきた道に続く、その行く先を指差してくれた人がいることを私は嬉しく思った。

最後に私は再びP先生を訪れた。P先生は自分より上の世代のS氏やサルドノ氏の話を興味深げに聞いてくれた。そして、芸大は芸術のあり方を近代化した、それがなければジャワ舞踊は今に残らなかっただろう、だがその過程でひきかえに失ったものも確かにあるのだ、と言ったのだった。

こんな風に多くの人を訪ねてアドバイスを受けながら、善哉童子の旅はこんなものだったのかなあという思いが頭をよぎっていた。

oobaラサを支えるもの 「水牛」2004年3月号掲載)

ラサとは味わい、感じ、感覚、感性といった意味である。技術的な上手・下手を越えて求められる、その芸術分野が持つ味わい、雰囲気と言えるだろう。私が自分のジャワ舞踊の達成度合いや課題についていろんな先生にコメントを聞いて廻った時、誰もが技術的な問題に先んじて言及したのが、(ジャワ舞踊の)ラサがあるかどうかだった。このことはたぶんジャワ舞踊に限らず、外国人が異文化の伝統芸術を学ぶ場合には必ず問題にされる点だろう。逆に指導者の立場からすれば、どうやって異文化の人間にラサを伝えられるかが課題となる。

あるときジャカルタ在住のジャワ人舞踊家に、「どうやってジャワ舞踊のラサを身につけたのか、今までどういう練習をしてきたのか。」と聞かれたことがある。なぜまた外国人にそんなことを聞くのだろうと不思議に思っていると、「私の弟子は皆とても上手なのだが、ジャワ舞踊のラサがない。そしてそのラサを教えることが大変難しい。」と続けたのである。その人はジャワで生まれ育った優れた舞踊家であり、また細かい点まで指導する人なので、この人にしてさえそうなのかと思いつつ、思わず、そうでしょうねと返答してしまった。実は私も今までジャカルタの若い子達のジャワ舞踊を見てきて、どうもラサが薄いのではないかと感じていたからである。(ここで言うジャカルタの人には、成長して後にジャワからジャカルタへ移った人は含んでいない。)

テクニック的にはジャカルタとソロの踊り手で差があるようには思えない。また公演において群舞で踊っているのを見ている限りでも、ジャカルタの子達にラサが欠けているようにも見えない。しかし個々人の動きに、それも特に練習段階で注目していると、衣装や遠目によるごまかしがきかなくなるせいなのか、あまりジャワ舞踊のラサがあるように感じられないのである。

それよりも、ジャワのラサのないことは踊っていない時に如実に現れた。確か1997年、ソロとジャカルタの両方の踊り手が出る公演の合同練習を初めて見た時のことである。ジャカルタの女の子達はソロの子達よりも歩くのが大股で、足を開いて座り、早口でしゃべり、化粧が濃く、女性でも人前で煙草を吸う。その両者の雰囲気の落差に私はすっかり驚いてしまった。特に私はそれまでの留学生活のほとんどをソロの町から出ることなく過ごしていたので、よけいにジャカルタ勢に違和感を覚えたのかも知れない。このことで生活環境が舞踊に及ぼす影響について考えずにはいられなかった。

ソロはジャカルタに比べればまだまだ田舎で、保守的で、だから日常生活における所作や態度も都会の人達よりは控えめになるのだろうと思われる。話すのが遅いのも、生活のテンポがのんびりしているからだろう。余談だが、私がジャカルタに行って一番驚いたのが、人々のしゃべるテンポの速さであった。実はテレビドラマでも会話のテンポは速いのだが、あれはドラマ上のことだけだと思っていたのである。何のことはない、ジャカルタではそれが普通だったのだが、ジャワに滞在している限りはあれが非日常的な会話スピードにしか聞こえなかったのである。というわけで、ジャワ舞踊の抑制的でゆったりした動きは、いまだにジャワの日常の動きや生活テンポからかけ離れ過ぎてはいないように感じられる。

もっともジャワにおいても世代によって多少の違いはある。たとえば私の師(1933年生まれ)に比べて、現在の子達が取るポーズでは視線も手のポジションも高くなっている。つまり踊り手がまっすぐ前を見るようになり、腋を以前よりは開くようになったのである。これは、時代を経るにつれ、ジャワの理想の女性像がいつも伏目がちで控えめな女性からそれよりは自由で自己を持ったものに変化してきたからだと言える。

したがってジャワ舞踊のラサ自体もそれだけ変化してきているのだが、そうであってもなお、現在のジャワ舞踊のラサは現在のジャワの日常生活環境によって支えられている、と思えるのである。しかしジャカルタの若い人達にとっては、ジャワ舞踊は日常生活からかけ離れた、非日常のものになっているようだ。日本の都会と同様に、人々は郊外に住んで長時間かけて都心へ通勤し、稽古場に行くという生活になってしまっている。ジャワ舞踊はもはや稽古場でのみ再現されるものであって、その限られた場においては、ラサを吸収するのは難しいのかもしれない。

ooba私のスリンピ・ブドヨ観 「水牛」2004年4月号掲載)

スリンピとブドヨはともにジャワの宮廷女性舞踊で、マタラム王朝の後裔のジョグジャカルタとスラカルタ(ソロ)の宮廷に伝えられている。どれも完全に上演すると1時間ほどかかるので、現在では10〜25分に短縮されている。スリンピとブドヨの完全版をできる限りすべて修得するというのが、私の留学時代の課題であった。今回はスリンピとブドヨ(完全版)という舞踊について、私が自分自身の舞踊体験から感じとったことだけを書いてみた。したがってこれらはジャワの文献に書かれていることでもなければ、舞踊の師が教えてくれたことでもない。また観客の立場から見た見方でもなく、私が5年間振付の時間を経験し続けて感じたことである。

●スリンピ

スリンピは4人の女性が同じ衣装を着、同じ振付を舞う舞踊である。振付は抽象的で、同じ振りを2回または4回、方角を変えて繰り返し、シンメトリーなパターンを描く。舞楽のようなものだと想像してもらえれば良い。宮廷舞踊では4本の柱で囲まれた方形の空間で舞うのだが、その空間の雰囲気も舞楽の舞台に似ているように思われる。

スリンピでは基本的に、4人の踊り手が正方形、あるいはひし形を描くように位置する。最初と最後は4人全員が前を向いて合掌する。曲が始まって最初のうちは4人が同じ方向を向いているが、次第に曲が展開していくにつれて、踊り手のポジションが入れ替わり、さまざまな図形を描くようになる。4人1列になったり2人ずつ組になったりすることもあるが、4人が内側に向き合ったり、背中合わせになったり、右肩あるいは左肩をあわせて風車の羽のように位置したりすることが多い。こういうパターンを繰り返し描いて舞っているうちに、空間の真ん中にブラックホールのような磁場があるように感じられてくる。踊り手はそこを焦点として引き合ったり離れたり回ったりしながら4人でバランスをとって存在していて――それはまるで何かの分子のように――、衝突したり磁場から振り切れて飛んでいってしまうことはない。4人が一体として回転しながら安定している。それも踊り手は大地にしっかり足を着地させているのでなく、中空を滑るように廻っている。そんな風に、スリンピは回る舞踊だと私は思っている。

そしてまたスリンピは曼荼羅だとも思っている。私がそう言った時に、まさしくそう思うと言ってくれたジャワ人舞踊家が2人いた。(同意してくれそうな2人にしか話していないが)曼荼羅は東洋の宗教で使われるだけでなく、ユングの心理学でも自己の内界や世界観を表すものとして重要な意味を持っているようである。曼荼羅のことを全く知らなくても、心理治療の転回点となる時期に、方形や円形が組み合わされた図形や画面が4分割された図形を描く人が多いのだという。スリンピが曼荼羅ではないかと思い至った時に河合隼雄の「無意識の構造」を読み、その感を強くしたことだった。さらに別の本(「魂にメスはいらない」)で曼荼羅の中心が中空であるということも言っていて私は嬉しくなった。スリンピという舞踊は今風に言えば、1幅の曼荼羅を動画として描くという行為ではないだろうか。ブラックホールを原点として世界は4つの象限に区分され、その象限を象徴する踊り手がいる。そんなイメージを私は持っている。

●ブドヨ

ブドヨは9人の女性が同じ衣装を着、同じ振付を舞う舞踊である。振付も抽象的で、同じ振りを方角を変えて繰り返すところなどもスリンピと同様であるが、9人という人数で踊られるだけに複雑なフロアパターンを多く描き、またシンメトリーでないものも多い。ブドヨはスリンピと違って多くの作品が失われてしまった。ただしブドヨの本歌とも言うべき「ブドヨ・クタワン」はいまなおスラカルタ宮廷で毎年王の即位記念日に行われている。これは門外不出の舞踊である。今に残る数少ないブドヨ、または元はブドヨであったと言われるスリンピ作品を舞ってみて痛感するのは、ブドヨは大地を歩く舞踊であるということである。

ブドヨに特有なステップのあるララスやプンダパンという動きでは、踊り手は前に進むかと思えば後退し、また進み……を繰り返す。大地を慎重に踏み固め、練り歩いているような気に私はなるのだが、歩くという行為自体が宗教的、呪術的行為になり得る。

アボリジニには聖地を結ぶ古い小道を儀式的に徘徊(walk about)し、それぞれの聖地で決められた儀式を行って、精霊のエネルギーの循環を助けるという信仰があるそうだ。またイギリスでキリスト昇天祭に催される「大地の境界線を打ち据える」(beating the bounds)儀式も似たような徘徊の行事だという。ライアル・ワトソンの「アース・ワークス」でこれらのことを儀式的徘徊の存在を知った時、また日本でも陰陽師が行うという反閇(へんばい、歩くことによって行う呪法)があることを知った時に、これらはブドヨと同じではないかという気がしないではいられなかった。

9人がこうやって大地を踏みしめてもぞもぞ、ぬるぬると移動するとき、私はこの9人が巨大な1個の生命体となって大地を這っているような感覚に襲われる。1人1人の踊り手は大地を踏みしめているのだが、1個の生命体となった時には、蛇のような足無しのものが這っていくという感じなのだ。特に9人が一列の隊形の時はなおさらである。だがこの生命体は9人の徘徊によって生じたエネルギーかも知れない。それは「気」のようなもので、霧が谷川の上を蛇のように(気とくれば龍に例えるほうが良いかもしれない)流れていくように、ブドヨのエネルギー体が大地を這っているのかも知れない。

何ともまとめようのない文章になってしまった。読者の方は、宮廷舞踊に対してなんと突飛なことを考えているのだと思うかもしれない。だが舞踊の動きはイメージの中に生き、そしてイメージは連想に支えられていると私は思っている。スリンピやブドヨを、こんなイメージを持った舞踊として表現できたらと私は思っている。

ooba風景が変わること 「水牛」2006年7月号掲載)

ジャワ中部地震が起きてから1ヶ月が経った。私はまだ大きな地震に遭ったことがないから、被災について語る資格はないかも知れない。けれど、私自身の経験した小さな不幸について書いてみる。

最初の留学から帰国して間もなく、私は妹を亡くした。そのときになって初めて私は、今まで家族を亡くした人の気持ちを全然分かっていなかったのだと思わずにはいられなかった。私が留学している間に、私が舞踊を師事していたJ先生は夫を亡くし、P先生は父親を亡くしていた。私はお葬式に参列し、特に親しく師事していたJ先生の夫の年忌にはずっと参列していた。当時の私は私なりに先生達の悲しみに同情しながらも、ジャワ人は死を神の思し召しとしてあっけらかんと受け止めているように見える、などと感じたりしていた。私自身の身にそんなことが降りかかるまでは。

いかに第三者には気丈に見えていても、人の気持ちはそんなに簡単に割り切れるものではなく、いくら信仰心厚くとも(P先生はカトリック、J先生はイスラムを信仰している)、感じる悲しみの絶対量に違いはない、と今は思う。死をあっけらかんと受け止めているように見えていたのは、人生の不条理さをジャワの人々が心得ていて、それを受け止める心構えができていたからだと思う。そして逆に、当時の私には、そのことに気づくだけの感性がまだ備わっていなかった。

妹を亡くした後、私は舞踊の練習を1人で続けた。漠然と、ジャワ舞踊を手放してしまったら自分が崩壊してしまうような気がしていた。ガムランの曲を聴くだけでも胸が締めつけられて息苦しかったのに。なぜそんなにまでしてジャワ舞踊にしがみついていたかったのだろう。

「メナック・コンチャル」という舞踊曲がある。出陣する王子の雄雄しい姿の描写の後に、想いを寄せる姫の面影を追う王子の姿が描写される。曲の形式がそれまでのラドランからクタワンというゆったりとしたテンポに変わり、ボーカルが切々とした思いを歌い上げる。王子は今度の戦いで死ぬことを予期しているのだ。この作品のクタワンに移行する部分で、急に涙があふれてきた。死ぬことを予期した王子の激しいやるせなさが、急に私の胸にも突きあげてきたのだ。こんなことは、ジャワで練習していた時には一度としてなかったことだった。いくら作品のテーマや歌詞の意味を理解してはいても。また一度そんな風に聞こえてしまうと、もうそれ以外のようには聞こえてこなくなる。

妹が亡くなって1年半後、私は再びジャワに留学し、「カルノ・タンディン」という舞踊作品を習っていた。これは「マハーバーラタ」の中の物語の1つで、アルジュノとカルノという異父兄弟が敵味方に分かれて戦い、最後にはカルノが敗れる様を描いている。この曲には2人が離れていったかと思うと、向きを変えて近づいてくる、という振付が何度か出てくる。その向きを変えた時に歌が入ってくるのだが、そこで、カルノとアルジュノが自分と妹にダブって「もう2度と会えない」という気持ちがよぎったり、もう時間を元には戻せないと感じて、そのたびにいつも涙が止まらなかった。けれど、その箇所でそんな思いがこみ上げてくるということは、いくら作品を分析しても出てこないに違いない。この演目は重い演目で、上演される時にはお供えが必ず用意される、ということをいくら知っていても、それはやはり頭の先の理解にとどまっていて、お供えを用意せずにはいられない心の内をわかったことにはならない。

昨日の続きの今日があって、そして明日に続いていくという世界が破綻したとき、それまで見ていた風景は一瞬にして変わる。いくら被災地の映像を見、同情の念をもよおしても、この風景が変わらなければ被災者の気持ちには達し得ない、と思う(私は救援活動に携わる人々を批判しているのではない)。そしてまた芸術というのは、たぶん、それまでの安定した世界が破綻しようとするときにこそ見えてくるもののような気がする。

ooba己が姿を確かめること その1 鏡を使うこと (「水牛」2007年9月号掲載)

   伝統舞踊の稽古で鏡を使うのは良くない、とはよく言われることである。ジャワ舞踊でも鏡を使う習慣はない。そのことに私は基本的には賛成しているが、では私は鏡を使わないのかと言えば、使う。鏡も使いようだと思うのだ。

   まだ留学してきたばかりの頃の私は、いくら鏡に自分を映して見ても、自分の動きのどこが悪いのか、師匠との動きの差がどこにあるのか、実はさっぱり分からなかった。

   私がメインとする女性舞踊の場合は、師匠の振りを見て倣うという、昔風のやり方で稽古をしていた。それがある程度進んでから、今度は芸大の先生についてアルス(男性舞踊優形)の稽古も始めた。この先生は、当時決まって、鏡がずらりと並ぶ舞踊科の化粧室で稽古をつけてくれた。それは鏡があるからという理由でなく、別の理由からなのだが、この先生にある時、「いま、鏡を見てごらん」といわれたのである。

   鏡には先生と私が並んで映っている。その時に初めて、先生のとっているポーズと私のポーズとの出来具合の差が自覚された。自分1人の姿をいくら鏡で見ても客観的に眺めることができなかったけれど、比較対象者と一緒に鏡に映りこむと、彼此の差がある程度客観的に分かるのだ。それ以降、目の前にいる先生の動きを確かめつつ、鏡もちらっと見て先生と自分の動きの差を確かめてみるということをやっていくと、自分1人を鏡に映していても、その横に比較者の存在をイメージすることができるようになって、自分のできていない部分が次第に、ある程度自覚できるようになった。

   芸大の授業では、下手な生徒も上手な生徒も一斉に踊る。これを見ることができたのは有益だった。初心の段階では、上手な人が踊っているのを見てもその上手さはよく分からないし、また下手な人の下手さ加減も分かりにくい。けれど両者が一緒に踊るのを見れば、両者の差が見えてくる。そして自分のレベルが上がっていくと、横に比較対照者がいなくても、自然と目の前にいる1人の踊り手のレベルがどの程度か判断ができるようになる。

   鏡に映した場合も、そんな風に見ることができればよいのだ。ただ自分だけに魅入ってしまうと、それは自己陶酔になってしまう。だが、そうならないためにどう鏡を使うのか、あるいは鏡を使わないのか、ということを考えてみるのは、有益なことのように思う。

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   その数年後の2度目の留学の時、今度はアルスでもウィレンと呼ばれる宮廷舞踊を習っていた。これは2人の踊り手が向き合って同じ振付をシンメトリに踊るという種類のものである。その練習を、鏡のある部屋で1人でやっていて気づいたのだが、鏡があると、1人で練習していても、相手がいるように見える。ウィレンではいつも相手と対称に位置する。向き合ったり、背中合わせだったり、右肩/左肩あわせの位置だったりする。鏡だと左右反転してしまうが、それでも鏡の向こうに自分と同じ動きをしている人がいて、まるで2人で練習しているかのように錯覚してしまう。

   ウィレンでは2人が対照的に踊っているけれど、これは1人の人間を2つの違う次元から眺めただけではないか。2人で踊っているけれど、本質は1人で踊っていることと変わりないのではないか、と気づいた。さらに言えば、4人で同じ振付をシンメトリに舞うスリンピ(舞楽のような舞踊)もまた、やはり1人の人間を4つの次元から眺めた姿をそれぞれに描いているのだろう、と思っている。

   そう気づいてからは、私はウィレンやスリンピを鏡のある部屋で積極的に練習するようになった。しかし、あえて鏡をのぞき込むことはしない。そもそも踊っているときに相手の方ばかりを向くことはないのだし、鏡に背を向けることだってある。重要なのは、鏡に映っている自分自身の姿を見ることではない。鏡の向こうに次元の異なる、しかし一続きの空間が広がっていると知覚すること、そして鏡の向こうに自分を客観的に見ている誰か(ここでは自分、実際の舞踊であれば相手方、ひいては神)がいるという気配を感じること、なのだ。

   私はよく自分の背後に鏡を置いて舞踊の稽古をする。鏡の方は向かない。世阿弥の離見の見というのは、背後からでも自分の姿を確かめることができるような境地を言っていたような気がするが(手元に本がないので確認できない)、自分の背後を知覚しようとする意識状態を作るのに、鏡も1つの助けとなるような気がする。

  

ooba踊り手の人数 「水牛」2004年5月号掲載)

今回は踊り手の人数に着目してジャワ舞踊を眺めてみよう。数字に何らかの意味を込めることは、多くの文化で見られる。ジャワ舞踊と他の舞踊を比較して、共通点や相違点を探すのもおもしろいのではなかろうか。

●1人

ジャワの宮廷舞踊にはもともと単独舞踊はなく、複数の踊り手の構成・振付によって抽象的な理念を表現する。したがって踊り手の自己表現を見ることが第一義ではない。しかし単独舞踊を見る場合は、振付が表現している理念よりも踊り手自身の魅力を見ていることが多い。そのため踊り手はしばしばスターとなる。その種の舞踊がガンビョンであり、キャラクターのある男性舞踊であると私は思っている。

ガンビョンは昔はワヤン・オラン(伝統舞踊劇)やクトプラ(大衆演劇)の女優が前座で踊ったり、レデッやタレデッと呼ばれる流しの女性芸人が踊ったりするものだった。女性性を売り物にしていると見られていたので、かつては一般子女は踊らなかった。ガンビョンという舞踊が語られるとき、しばしばプリマドンナ性という言葉が使われる。女性が1人で踊るということは、それだけで人目をひきつけるのであろう。

キャラクターのある男性舞踊は、舞踊劇でヒーローの踊るシーンが独立したものと言える。クロノ王(荒型)やグヌンサリ王子(優形)の舞踊は、ソロの郊外にあるクラテン村で盛んだったワヤン・トペン(仮面舞踊劇、パンジ物語を題材とする)に由来する。ワヤン・トペンではこれらの役を踊る人は決まっていた。その他にマハーバーラタ物語に由来するガンビルアノム王子(優形)やガトコチョ(荒型)の舞踊もある。ガトコチョの踊り手と言えば、スリウェダリ公園にあるワヤン・オラン劇場の故ルスマンが有名である。

このように、女性の踊り手は女性であるだけでプリマドンナとなり得るのだが、男性の踊り手はキャラクターを演じそれと一体化することでスターとなる。この違いはなぜ生じるのだろう?あるいは違いはないかも知れない。ガンビョンの踊り手もまた「男性好みの女性」というキャラクターを演じているのかも知れないからだ。

単独舞踊にも上記のような舞踊とは違う性格のものがある。たとえば「ルトノ・パムディヨ」(女性舞踊)や「パムンカス」(男性優形)である。「ルトノ・パムディヨ」はスリカンディが宿敵ビスモを倒すという物語を描いているが、踊り手とキャラクターの間には一定の距離が感じられる。それはこの舞踊が宮廷舞踊と同様の理念や美を表現しようとしているからだろう。このことは「パムンカス」にも当てはまる。

●2人

ウィレンやプティランがある。どちらも戦いを描いているが、プティランは舞踊劇の中から戦いのシーンが独立したもの。ウィレンは男性宮廷舞踊で戦い(内面の葛藤)を描いており、4人で踊られるものもある。ウィレンであれプティランであれ、戦いのシーンまでは2人とも全く同じ振付で、シンメトリーな構成である。

●3人

「スカルタジ」がある。この作品は1970年代にPKJT(中部ジャワ芸術プロジェクト)活動の中で作られた。パンジ物語からパンジ王子(男性優形)、王子の許嫁・スカルタジ姫(女性)、スカルタジ姫に横恋慕するクロノ王(男性荒型)の3人を抜き出して描いており、ちょうどスラカルタ様式の3つの型を代表している。だが3人が同時に舞台で踊ることはない。スカルタジ1人、パンジとスカルタジのドゥエット、あるいはクロノとパンジとの戦いのシーンから成る。

スリンピは4人の舞踊であるが、「スリンピ・アングリルムンドゥン」は元は3人のブドヨ作品だったという伝承がある。この3人のブドヨはマンクヌガランで作られたが何らかの理由で上演されず、踊り手3人とともにクラトン(王宮)に献上された。クラトンではその後踊り手を1人足して4人のスリンピとし、後半の曲をつけて現在のような形にしたのだという。

●4人

スリンピの他、ウィレンにも4人で踊られるものがある。

先月書いたように、スリンピは空間を4次元に分割するように踊られ、曼荼羅を思わせる。4人は4方位を表し、踊り手はポジションによって頭、首、胸、尻と呼ばれる。

●5人

確か東ジャワの民間舞踊で「スリンピ・リマ」(リマは5の意)というものがある。舞踊の来歴については忘れたが、全く素朴な振りの舞踊である。4人が正方形を成し、その中央に1人が位置する。5人は廻りながら各位置で同一の振りを繰り返し、元の自分の位置に戻る。ここでは5という数字は明らかに四方+中央を意味している。

1992年に芸大スラカルタ校により作られた「スリンピ・ジャヤニンセ」はこの「スリンピ・リマ」のようなフロア・パターンをとり、四方が女性、中央がアルジュノという男性を象徴している。

●6人

ジャワで見たことがない。

●7人

ブドヨは9人による舞踊であると言われるが、実は9人による上演はクラトンだけの特権である。それ以下のマンクヌガラン家やブパティ(県知事)が9人のブドヨを上演することは許されず、普通は7人(奇数)で上演された。

●8人

ジャワで見たことがない。

ただ私が留学中に出演した作品(水牛2003年3月号、4月号に執筆)では、男女4人ずつの踊り手を起用し、スリンピとウィレン(4人)を組み合わせたような構成になっていた。

●9人

ブドヨがある。9は人間の9つの穴(両目、両耳、両鼻孔、口、肛門、性器)を表していると言われる。

oobaジャワ舞踊の衣装 「水牛」2006年5月号掲載)

最近はジャワ舞踊の話からそれてしまっていたので、久しぶりにジャワ舞踊の話に戻ろう。ジャワ舞踊の魅力は、その優雅な動きにあるのはもちろんなのだが、その動きを作っている衣装の魅力に負うところも大きい。というわけで、今回は特に衣装に注目してみよう。

ジャワ舞踊というのは、中部ジャワ地域で王宮を中心に発展した舞踊のことで、スラカルタ(通称ソロ)とジョグジャカルタ(通称ジョグジャ)が主な中心地である。ちなみに文化的に単にジャワと呼ぶ場合は中部ジャワだけを指し、東ジャワや西ジャワを含めない。

●カイン・バティック

ジャワの伝統衣装の着付では、バティックを施したカイン(上下約1m×長さ約2mの布)を1枚、腰に巻く。バティックは一般にジャワ更紗と呼ばれているが、多くの人が想像するような多彩な色使いの花鳥模様のジャワ更紗は、スラカルタやジョグジャカルタのものではない。王宮都市のバティックは、白地や茶色地に抽象化された模様が整然と描かれた地味なものだ。その中でも舞踊に用いられるのがパラン模様である。これは王族だけが着用できる禁制模様で、現在でもそれは守られている。つまり踊り手がこの柄を着用できるというのは、逆に言えば、踊っているときだけ踊り手は王族の身分になれるということなのだ。

このカインの着付け方にはいろいろあるのだが、スラカルタには、カイン・バティック1.5枚分を横に縫い合わせたものを巻きつけ、裾を60cmくらい引きずる着付け方(女性用)がある。スラカルタ宮廷舞踊の着付け方で、ジョグジャにはない。この着付け方を一般的にサンバランと呼ぶ。この布を腰にぴったり沿うように二巻きし、余りが体の前面に来るようにして襞を取り、その襞を両足でまたぐように着て、尻尾のように後ろに伸ばす。その尻尾が、標準体型の人だと、だいたい60cmくらいの長さになるというわけだ。そして踊る時は、裾が足にからまないように、その尻尾の部分を左や右に蹴りさばく。実はサンバランとは「サンバル=蹴る」の名詞形なのである。しかしサンバランというのは通称で、宮廷では違う名称がついているが、失念してしまった。実は裾を引きずるような服を着てみたいというのが私の小さい頃からの夢だった。ローブデコルテや十二単、打ち掛けなど、お姫様の衣装はどれもみな裾を引きずるものと決まっている。サンバランの裾はこれらの衣装のように張りがなく、その蹴られた裾がさざ波のように揺れるから、いかにも優雅だ。

さらに宮廷舞踊のスリンピやブドヨでは、その尻尾の部分にピンクと白のバラの花びら、それに刻んだ良い香りの葉(これらをあわせてクンバン・スタマン=庭の花という)を巻き込む。おまけに香水まで振り注ぐ。それ以外の舞踊作品でもサンバランの着付けをすることはあるけれど、花びらまでは巻き込まない。座って合掌していた踊り手が立ち上がり、裾を蹴るたびに、ねじっていたカインの端がほどけ、巻き込まれた花びらが少しずつこぼれて、宙に舞い散る。その様子は散華のようだ。それに視覚的に美しいだけでなく、花びらの香りが辺り一面に拡がって嗅覚をも刺激する。これは踊り手の気分をも恍惚とさせてしまうくらいだ。

ブドヨの場合は、クンバン・スタマン以外に薬味のようなものも混ぜる。薬味の内容については失念したが、1つはしょうがみたいなものを使う。ジャワで「ダルマニンシウィ」という作品を踊った時に(水牛2003年3月、2003年4月に書いています)、実際にその薬味を巻き込んで踊ったことがある。花びらだけだと官能的な雰囲気に酔ってしまいそうになるけれど、この薬味が入ることで一気に鎮静され、瞑想的な気分になる。と言いつつも、「ダルマニンシウィ」の時は、私はしょうがの匂いに思わず空腹感を覚えてしまったのだが…。

花を巻き込むだけでなく、カインにお香を焚きしめることもある。宮廷にはかつて王様が着用するカインにお香を焚きしめる係がいたという。私は、王女さまがお香を焚きしめたカインを身に着けて踊るのを見たことがある。その時は踊り手との距離が遠かった割りには、動きにつれて仄かに香りが漂ってきたのには驚いた。こんな風に香りや花を贅沢に使うやり方は日本にはないなあと思ったものだ。

●カイン・チンデ

サンバランには、カイン・バティック以外にチンデと呼ばれる布を使うものもある。チンデはインド伝来の柄で、スラカルタではブドヨだけに使われる。ブドヨ(9人の女性による舞踊)の方がスリンピ(4人の女性による舞踊)よりも儀礼的な舞踊で、それにチンデを使うのは、おそらく宮廷儀礼とヒンズー仏教との間に何らかの関係があったからなのだろう。そのチンデの布は、インドでは織物であった。私も日本での展覧会やスラカルタの骨董屋でオリジナルのチンデを見たことがある。どちらも布の両端に織物の耳が厚く残っていた。現在ジャワで目にするチンデは、染めて作られているから耳はない。しかし布の両端に線が描かれていて、耳の名残がある。

●サンプール

サンプールは腰に巻いて、手で払ったり、指でつまんだりして使う布である。大人だと60cm幅×3mくらいの大きさのサンプールを使う。ジョグジャではほとんどチンデ模様のものを使うのだが、スラカルタでは男性荒型の舞踊やブドヨを除き、ほとんどの場合無地のものを使う。シフォンなどの柔らかく透けた布地を使い、両端にビーズで房をつけることが多い。

これがまた乙姫や天女や仏様が肩にかけているショールのような感じで、お姫様好きには憧れの小物である。だがサンプールを払うのは簡単そうに見えて結構難しい。未熟者が払うと手首によけいな力が入ってしまうし、それに薄物はとにかくアクセサリー類にひっかかり易く、未熟者はとかく粗相しがちだ。けれど上手な人がサンプール払うと、なんだかサンプールの滞空時間が長くて、本当に画に描かれた天女を見ているような気持ちになる。スリンピやブドヨでは皆同じ衣装を着て踊るけれど、ある人の周囲だけ時間の流れがスローモーションになっていて、あるいは濃密な空気が立ち込めていて、その人のサンプールだけがいつまでもふんわりと宙になびいている、と見えることがある。そんな風に踊れたら良いなといつも思っている。

●ビロードの胴着

下半身を覆うのがジャワの伝統的なカイン・バティックであるのに対して、女性の上半身を覆うのは西洋からもたらされた素材=ビロードの胴着である。こんな風に上半身と下半身の素材のルーツが異なるのは、ジャワ舞踊だけに限らず東南アジア各地の伝統衣装によく見られるものだ。南国ではかつて上半身に何もまとわなかったのだが、西洋人が服を着るように教化・強制したので、上半身が西洋風の衣服になった、というわけである。それはともかく、ジャワの女性舞踊の一般的な着方にはメカッ(=ビスチェ・タイプ、両肩を出す)とコタン(=袖なし上着)の2通りのモデルがある。どちらもビロード地に金糸で刺繍をおいたり、モールやビーズで房をつけたりして、豪華に仕立て上げたものが多い。

スリンピの場合はメカッでもコタンでもよいのだが、たいていはどちらを使うのか決まっている。ゴレッという種類ならコタンだし、スリカンディなどワヤン(影絵)の登場人物はメカッである。また女性の踊り手が男性舞踊の演目を踊る時は、メカッを着ることになっている。男性の踊り手なら本当は上半身何も着ないのだが、女性が踊る場合はそれはまずい…というわけである。

●ドドッ

ドドッというのはカインを上半身に巻きつけて着る着方の総称で、宮廷には何種類ものドドッがある。舞踊に使われるのは、ブドヨを踊る時のドドッ・アグン(大きなドドッ)という着方で、これは花嫁衣裳にも使われる。ドドッ・アグンでは約2m×5mの大きさの布を巻き込み畳み込んでいって、上半身から膝あたりまでを覆うように着付ける。それには金泥でアラス・アラサン(森の模様)と呼ばれる柄が描かれ、その生地はカインよりもずっと厚くて重い。ちなみに、私はジャワに住んでいる時、ドドッ・アグンの布を普段はカーテンとして使用していた。ちょうど窓2枚分を塞げる上に、生地が厚くて全然光を通さず都合が良かった。

ドドッ・アグンでは布を巻く醍醐味が味わえるとはいえ、重量も相当になるので、覚悟がないと着れない。普通は美容師に着せてもらうもので、1人ではまず着ない(着れない)ものだが、私は日本で何度か1人で着て踊ったことがある。私はこのドドッ・アグンがジャワ舞踊の衣装の中で一番好きなのだ。

この衣装の魅力はやはりその儀礼性の高さにある。ドドッ・アグンの場合はカインとサンプールはチンデのものを使用する。これらを全部身に纏うと、ビロードの胴着にカイン・バティックを着る場合とは全然違う心持になる。ただ大変踊りにくいのは事実である。ジャワ舞踊では必ず座って合掌してから立ち上がるのだが、ドドッでは相当量の布が上半身に巻き付いるので、手をつかずにすっと立ち上がるのが難しい。現行の宮廷の踊り方では、立ち上がる前に踊り手は必ず手をつき、「どっこいしょ」という感じで両膝を揃えて体勢を整えてからおもむろに立ち上がる。練習の時(カイン・バティックを身につけている)にその立ち方を見てみっともないなあと思っていたが、上演の時はドドッを着ることを考えると、致し方ないなあという気がしてくる。

こういう古典のドドッではなく、着やすいドドッも発明されている。それはブドヨ用ではなく、結婚式でよく踊られるいわゆる「ラブダンス」ものの演目のためである。スラカルタでは、1970年代から男女がペアで踊る演目が結婚式用に盛んに作られるようになった。その第1号がマリディ作の「カロンセ」で、これにはパンジ王子とスカルタジ姫という設定があり、その衣装を着る。しかしそれ以後に芸大を中心に作られた作品では、そういうキャラクター設定をせず、衣装も次第に花嫁衣装に似せたものを使うようになってきた。つまり踊り手が花嫁・花婿を演じるというわけなのだ。この場合は、カインよりも少し長いドドッ・タングン(1m×2.5m、タングンは中途半端の意)と呼ばれる布を、ドドッ・アグン風に着付ける。これは薄くて着やすく、動きやすい。芸大の先生が考案したと聞いている。

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